瀬川菊之丞 (3代目)
さんだいめ せがわ きくのじょう 三代目 瀬川 菊之丞 | |
『花都廓縄張』の仲居おはま | |
屋号 | 濱村屋 |
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定紋 | 丸に結綿 |
生年月日 | 1751年 |
没年月日 | 1810年12月29日 |
襲名歴 | 1. 市山七之助 2. 市山富三郎 3. 瀬川富三郎 4. 三代目瀬川菊之丞 5. 瀬川路考 6. 瀬川仙女 |
俳名 | 玉川・路考 |
別名 | 仙女菊之丞(通称) 仙女路考(通称) |
出身地 | 上方 |
父 | 初代市山七十郎 二代目瀬川菊之丞(養父) |
兄弟 | 初代瀬川如皐 |
当たり役 | |
『娘道成寺』の白拍子、『関の扉』の小町姫と傾城墨染 | |
三代目 瀬川 菊之丞(せがわ きくのじょう、宝暦元年〈1751年〉 - 文化7年12月4日〈1810年12月29日〉)とは、化政期に活躍した女形の歌舞伎役者。屋号は始め富士屋、のち濱村屋。俳名は玉川、路考。通称は仙女菊之丞、仙女路考。
来歴
[編集]上方出身。日本舞踊市山流の初代市山七十郎の次男として生まれる。はじめ父の元で修行し市山七之助を名乗り、明和2年(1765年)11月には市山富三郎と改名する。明和8年(1771年)、大坂の竹田芝居で『桂川連理柵』の信濃屋お半を演じて評判となり、これがきっかけで翌年5月に中の芝居に出る事になり、やはり信濃屋お半を演じた。
一方江戸では、安永2年(1773年)春に二代目瀬川菊之丞が死去する。その遺言によれば後継として、当時大坂にいた富三郎を指名したというが、これについては二代目菊之丞の弟子だった富三郎の兄、瀬川七蔵(のちの初代瀬川如皐)の口添えがあったともいう。富三郎は同年の暮江戸に下り瀬川富三郎と改名し、翌安永3年(1774年)春の市村座で二代目菊之丞一周忌追善として、『百千鳥娘道成寺』(ももちどりむすめどうじょうじ)を踊り、大評判となる[1]。同年11月市村座の顔見世で三代目瀬川菊之丞を襲名した。
人気・実力ともに江戸歌舞伎の最高峰として活躍し、文化5年(1808年)には女形ながら座頭となったほどだった。風姿と口跡に優れ、地芸と所作を兼ねたほか、世話物の娘役と傾城を得意とし、舞踊にも優れていた。四代目岩井半四郎とともに「女形の両横綱」と称された。
寛政年間に京橋南伝馬町三丁目稲荷新道(現・東京都中央区京橋三丁目)の坂本屋は、菊之丞の俳名「仙女」にちなんだ「仙女香」という名の白粉を販売した[2][3]。坂本屋が絵双紙の検査役でもあったことから、版元たちはご機嫌取りに絵双紙の中に仙女香の文字を入れ込み、それが宣伝となって仙女香は大ヒット商品となった[3]。
脚注
[編集]- ^ 『百千鳥娘道成寺』は初代瀬川菊之丞以来の瀬川家のお家芸で、この時は『花形見風折烏帽子』(はながたみかざおりえぼし)という外題だった。なお菊之丞は『百千鳥娘道成寺』を天明3年(1783年)に森田座で勤めたあと二度と踊ることはなく、もっぱら初代中村富十郎所演の『娘道成寺』を踊るようになる。その結果初代菊之丞が初演した瀬川家の『百千鳥娘道成寺』は廃絶するに至った。
- ^ 仙女香(読み)せんじょこうコトバンク
- ^ a b 『時代を変えた江戸起業家の 商売大事典』ISM Publishing Lab ゴマブックス株式会社, 2013「第3章見えないところにまで気を配る伊達男・伊達女を支えたアイデア 3.コスメ産業は今も昔も情報が命」
参考文献
[編集]- 渡辺保 『娘道成寺』(改訂版) 駸々堂、1992年
- 野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年